昭和40年08月17日 夜の御理解



 只今、御祈念に掛らせて頂くちょっとの時間に、先日勝彦が帰って来る時に、親先生から、これは昔出たお道の本なんです。こんな風に古くなっているんですね。もう雑誌ですから、普通ならばもう、なくしてしまう所でしょうけれどもね、親先生中々物持ちが言いのですよ、ちゃんと綴じってからこんなに、勝彦にいい事が書いてあるからといって、下さったというのです。
 本当にもう昔の本ですけれども、矢張り中々昔なら昔の本の、まあ良い所がちょっこうはぐらせて頂いて、読ませて頂いておったのが、丁度佐賀の教会の初代の話が出ておった。林と言う先生。あちらに布教に出られてから、もう話なんですね。食べる物がないなら、食べまいと。そういう一つの、勢いをもってご結界の奉仕、神前の奉仕にまあ命をかけられておられた時ですね。
 幾日経っても、その誰もお参りして来ん。米一粒お供えがない。丁度五日目の断食修行をしておられる時に、親教会からやられておられた、まあお弟子さんの様な方なんですね。その方が、そのお米を借りに行こうと言われたんです。自分の親方が佐賀におるから、お米を借りに行こうと言われた時にです。乞食坊主と間違えられたらならんから、借りにだけは行ってくれるなと言うて、その止められた。
 それから、ある夜ある婦人の方が重箱を持ってお参りしたと。それにそのお米のお供えがあったという、所を私読ませて頂きよった。所が御祈念の時間ですから、御祈念させて頂こうと思うて、おるところへ丁度久富さんが入って見えられた。久富繁雄さんが。そしてそのお届けがです、「今日久留米やら、佐賀の方へ、西瓜を出しに行きよりますけん、市場にね、どうぞよろしくお願いします」というお届けがあった。
 私何かドキッとするものを感じたのです。どうです皆さん分かられますか。佐賀というのは、まあ椛目の信心の喜びと云う様に感じますね。人偏に左を書いている。賀は喜びと書いてある。しかもそれ、佐賀の初代のですそう云う様な、命をかけてのお取次ぎの修行の模様を読ませて頂きよる所にです、息子の国男さんが「今日は佐賀に、西瓜を出しに行きよります」とこういう。
 何か知らん一つの関連を、感じるじゃないですか。ね。西瓜といやあ、こういう風に書いてあるです。西瓜の行もいとわんと云う所を、丁度読ませて頂きよったばっかりのとこだったんです。水の行も火の行もいとわんと。例えばよし是が、椛目の繁盛で、かつれ死にでもする様な事があってもです、いわゆる乞食坊主に成り果てちゃならん。矢張り身も心も神様をお供えしてからの。
 言わば神前奉仕をなさっておられると言う所。私そう云う様な一つの関連が、関連した物をです感じる時に、ははぁ神様は今日はここから御理解を下さるなあと何時も思うのです。私の御理解は、何時もそういうような事から、ご理解を頂いております。そこで、私は、佐賀の西瓜ではないけれども、椛目の西瓜。椛目の修行というのはどういう修行をもって、椛目の修行とするだろうか。
 私は椛目の信心をさせてもらうならば、ここんところの修行がです、有り難く元気で、出来こなせれる信心にならなければ駄目だと私は思う。それは決してがむしゃらでもない。無茶な修行じゃない。けれどもここの所を、私はおかげ頂かねばいけんと。でなかったらいわゆる「信心する者の真の神徳を知らぬ事」と仰るがその「真の神徳」に触れる事が出来ない。「これで腹が決まったぞ」という時、
 お弟子さんがお米を親戚に借りに行こうと言われる。それを例えば差し止められる、林先生の信心のま一つの態度というか、根性というかそういう様なものがです、私はなからなければ、真の神徳を知らぬ事で終わってしまわなければならんと思う。そこんところをいい加減に「丁度、神乍に、ああたこの人が、お米を借りに行ってくれると言いましたけん、それも神乍らじゃろうと行って貰った」と言う様な所からはです。
 おかげはなりません。成程、神の手は貸してはくれましょう。けれども成程神様がです、お生かしを下さっておると云う事でも。自由自在の方でおありになるなあと云う事なのです。私は椛目の信心をしよる中にね、お願い信心よりも、お礼の信心に力を入れる事だと思う。一つの。先程親子さんがお参りしてみえてから、あちらのお導きで、あちらは田川の教会の総代さんで、清田さんと言う方がある。
 それで現在野菜屋さんかなんかやっておられるけれども、ふた島と言う所は、ご承知の様に温泉がある所。だから温泉にしたいという希望を持っておられた、その事をお伺いに見えらたのが一番初めてであった。そしたら神様はね、もう「急げ急げと速やかに」と云う事を頂いた。だから取り合えず早う、掛りなさったがが良いですよと。もう五、六年も前から設計図だけは出来とるち言う。
 設計図を持って見えました。だから私にその設計図を見せたっちゃ、いっちょん分からんけれどもね、それじゃ神様が、急がれるがええと仰られるから、あの急ぎなさいと、私は申しました。所が中々踏ん切りが付かなかった。何回か参って何回もその事をお伺いをされたから、取り合えず、一番初めに頂けれる様に神様のお言葉に二言はないから、急げ急げという事であった。
 そしたら今日( ? )ちょっとおかげを頂いた。椛目の先生が急げ急げと仰るから、急がせて頂いたら、なにかに送り合わせを頂いておる。第一おかげを頂いておると云う事はです。どうしても矢張り温泉が出る様になるまでは、四十日から五十日掘らなければ温泉は出て来ない訳なんですねあっち当り。所が十三日目に出て来たち。おかげ下さるなあおかげの実感をさせて下さる為に。
 わざわざ十三という日を使うて下さったなあと言う風にも感じる。観念したでしょうか。それでもう、お礼に出らにゃならんと思いよるけれども、こんな風で忙しいからという。こげな事が他所で信心の稽古をした人は違うち。椛目の信心をさせて頂く者はですそう云う様な所に一つの、それは成程行かれんかも知れないけれども、それを修行と頂いたらいい。椛目の修行はそういう修行なのだ。
 お願いには慌てて出て来るけれども、お礼には慌てて出て来る氏子が少ないと。椛目的な信心をさせて頂くならですね、もう明日で良かろうとか、今度お参りした時で良かろうと言う様な事ではなくてです、お願いは遅れたっちゃ構わんから、お願いはあとでもかんまんから、御礼を大事にさせて頂く様な信心にならなければ、私はほんなおかげを受けられん。そういう信心からしか。
 今日私がいう、ギリギリの椛目的信心です。言わば佐賀の西瓜です。そういう修行には、絶対耐えられないです。心配で心配で堪らんです。弟子さんがお米をおかげでこうじた、借りに行こうというんなら行ってくれんかと必ず言うです。そして借りて来た事だけを、おかげ頂いてから、命が延びたと言う。そんなもんじゃ、生易しいものじゃないて。おかげというものは。
 信心するものの真の神徳を知らぬ事という、その、神徳に触れると云う事。神徳を受けると云う事。それは決してがむしゃらではない、神様を信じ切手の、神様に身も心もお供えしてからの信心。金が足らんと言ったらすぐ借りる。食べ物がないちいや、もうどこかで借り。そこん所がです、そこん所を私は体験させて頂かねばならないけんと。でなかったら生きた神様を、現す事も出来なければ自分で頂く事も出けん。
 是は人のおかげを頂きよっとを、見よるだけじゃあ詰らん。私は今度のお月並祭に、あの「松の泉」という焼酎のお供えを頂いて、あの事から御理解を頂いたのだけれども、確かにこの、私は、桂松平先生の信心にはですね、清酒的なものではなくて、焼酎的なものだと思うのですね。度が強い。神様を信じる度合が強い。しかもそれがです、命に関わると言った様な場合でもです、信じて疑わない。
 信じて疑わないじゃない、死んでもよかという腹なんです。今度の、松の泉的な中から汲み取らせて頂く、本当に、尽きぬおかげを頂く為にはです、神徳を受けなければ出来ません。その神徳というのは、私は椛目的修行に徹しなければ出来ないと思うのです。汗ぶるぶるで帰って来た。さあ、お湯にでも掛って、涼しい湯上りにでも着替えて、気分良うなって、後ろから家内が、蚊やりでも、こうやってたいて。
 団扇でもあおぎながら、御祈念をする様な御祈念では、椛目的信心に繋がる事は出来ない。汗ぶるぶるのまま。本当に今日までおかげを頂いて有難しと、大祓いを三巻やら五巻と上げさせて頂かねばおられん。背中を伝う、もう汗の事なんかは感じないと、そういう信心から、私は椛目的信心の味わいというものを頂けれると思う。そういう私は信心修行、椛目的信心修行というものがです、もうギリギリの所です。
 時に、言わば、信心度胸とでも申しましょうか。神様を信じて疑わんというのでは、までいかんにしましてもです、ままよと言う心にならせてもらうと云う事。ね。金どん、持ってから家は継がん。神様がここで、飢え死しろと仰るなら、飢え死にする覚悟でです。それを断られた所に、もう( ? )後には言わば、婦人の方が重箱をもって、お参りをして来た。その重箱の中にはお米が入っておったと。
 そういうおかげを頂いた時にです、私共のおかげを受けるものの喜びではない、神様のお喜びはどれほどの物か分かりませんです。ここん所を、氏子頂いてくれよと仰るのじゃなかろうかと。唯、頂いてくれよ頂いてくれよという。誰でも彼でも簡単に頂けれるというものではなくて。そこん所に信心をさせて頂く所の言わば神徳の、言わば働きというものをです。体験させて頂いてから。
 成程神様はこちらがままよという心になれば、おかげも下さる御徳も下さる事がです、分からせて頂けれる様な修行。椛目的修行とはそんなものではないかとこう思う。どうぞ佐賀の西瓜ではないですけれども、椛目的信心の修行。そういう修行為には私今ただ今申します様に。お願いよりも御礼を大事にさせて頂く様な信心。さあ忙しいけれどもそれも修行なんだ。それが修行それが椛目的修行なんだ。
 次にはです。汗が流れておるから、汗を流してからいっちょ神様にゆっくりお礼しようと言った様なものではなくてです。もう汗が流れているそのままに、ご信心しよったら、動かれんち言う位な、信心の言わば態度というものが必要だと思うのです。そういう信心をさせて貰う。お願いよりも御礼。気持ちの良い御祈念よりもです。それこそ汗ぶるぶるになってする様な信心。
 その先に私唯今私申します様な椛目的本当の信心の修行。いいや私は頼んでなか。それは決して我でもなければ意地でもない。がむしゃらでもないそれを皆んな心の神様へ、お供えさせて貰っておかなければ出来るものではない。そこを自分の身に徳を受け様と思えば、ままよという心になれよと仰る、そのままよという心をですならせて貰う為に、日頃そういう信心が出来ておって、そのままよでなからなければ甘い。
 日頃が出来ておかんでおいてからその時だけそれで行きよるで、その我や意地でですたいやっても私これは本当の事じゃないと思う。日頃そういう信心が出来ておって初めてそれが、言われたりなされたりする、そういう修行まあ椛目的修行と、椛目的修行に決まった事ではじゃないけれども、私はもし椛目的修行というならそう云う様な信心の進め方という物が身に付いて来なければいけんのだと私は思う。おかげを頂かねばいけません。
   おかげを頂かなければいけません。